ナーミンの玉手箱

本、投資、マンガ、麻雀などなど。好きな事について気楽に書いていきます。

『自分』って何処にあるもの?

今回はちょっと哲学チックな話を。

『自分』が身体の何処にあるのか、何をもって『自分』と呼べるのか。

なんて考えたことがあるだろうか?

 

それではここで思考実験。

仮に自分の体が切り離せるものとして考えてみてほしい。(血も出ないし、死なないという前提で。痛くもないですよ笑)

指を切り離してみる。『自分』は何処にある?と言われれば、まぁ残った指以外の部分かな・・と思うだろう。

じゃあ四肢全部を切り離した場合。『自分』は何処にある?と言われれば、これもまぁ、頭+胴体部分と答えるだろう。

 

それでは、頭と胴体を切り離した場合は?

『自分』って何処にある?頭か?それとも胴体部分か?

 

こうなってしまうと、う~~~んと唸ってしまうと思う。

逆説的な答えになるのだが、そもそも『自分』は身体の1部分につかさどるわけでもないし、身体すべてをもってここに『自分』があると表現することもできない。

 

僕が考える『自分』とは。『自分』とは、CDーRに書き込まれたデータのようなものである。身体というCDーR(記憶媒体)に、生まれてから今まで生きてきた歴史。書き込まれたデータ。それこそが『自分』なのだ。

 

「この身体があるからこれが『自分』だ」と表現できるのではない。「こう生きてきたから、この歴史が『自分』だ」といえるのだ。

 

 

仮に僕ナーミンが生まれたてで新生児保育器の中に入っていた時に、誰かの手によって他の家の赤ちゃん(仮にAちゃんとしよう)と入れ替えられてしまったする。

でも僕が生きてきたようにナーミンと呼ばれ、同じ環境で、同じ両親で、同じ大学、友達、経験を過ごしたのなら・・もうそれは「Aちゃん」ではなく「ナーミン」そのものではないか。肉体が違っていても、生きてきた歴史が同じなら同じ『自分』であることに変わりはない。

 

年寄りはガンコなんて言われるけど、それは今まで長く生きてきた分データが多く書き込まれているからだ。『自分』がとても濃くなっているから。

 

『自分』は変えられない、変わりっこない。そう悩んでいる人はいっぱいいる。

でも全くそんなことはないと思う。だって『自分』はただの歴史だから。

過去の『自分』は変えれないけど、これからの『自分』はいくらでも変えられる。

良い方にだって悪い方にだって。自分の選択1つで、『自分』は自在に変化可能だ。

 

元々の性格がアレだから・・・とか今までこうだったから・・とか。そういうことに囚われてる人は本当にもったいないなあと思う。『自分』に囚われ過ぎないでほしい。今までそう生きてきただけ。こんなただの過去の歴史に、これからも一生支配されるのはもったいないよ。

 

『自分』は自分で作るものだから。明るくて楽しそうな、素敵な未来を、そんな『自分』をこれから作っていきましょう。

 

まじめなはなし、おしまい。